近代合理主義と戦争責任

近代合理主義という武器を身につけた敵との戦いにおいて、同じ合理主義で武装したところで勝ち目がない。合理主義の範疇を超えた価値を身につけることで、勝てはしなくとも一方的な負けではなく、少なくとも相討ちに持ち込むことが可能となるのである。
それは日米間の戦争において展開された「カミカゼ」と「バンザイ突撃」こそ非合理ならぬ超合理であり、近代合理主義者にとっては理解に苦しむどころかあってはならない出来事だったのは確かである。
もし仮に日本が徹底抗戦を続け本土決戦まで持ち込んでいたら、いずれアメリカの方から講和を申し入れてきただろう。すでに沖縄の地上戦でアメリカ側は疲弊しきっていた。物理的損害より兵士の精神的損害である。何しろ非戦闘員でしかも女子供までが日の丸鉢巻白襷姿で竹槍一本で突撃してくるのである。ほとんどが機関銃でなぎ倒されて終わりだから物理的損害はゼロに等しい。はっきり言えば無駄死にである。だが、後味の悪い、気味の悪い、嫌な思いを味わうことは間違いないだろう。そして次から次へと竹槍突撃が繰り返されると、それを撃退する側は次第に精神に異常をきたすのである。
「一億総玉砕」を主張しそれを実行しようとする勢力もいたが、これが本当に実行されたらアメリカ軍のほうが先に参ったであろう。なにしろ日本側は軍民ともはじめから命など棄てきっている。「靖国でまた会おう」とお互い約束しているくらいだから何も怖いものなし。一方アメリガ側はごく普通の生身の人間である。「国に帰ったら彼女にプロポーズするのさ」なんて生ぬるいおしゃべりに明け暮れている連中である。絶対死にたくない生きて帰りたいと願っているわけだから心構えが違う。その時点で勝負にならないだろう。
よく日本の戦争責任、天皇の戦争責任が取沙汰されるが、これについても考えてみたい。
まず日本の戦争責任は一言で言えば本土決戦をぜずにギブアップしたことに尽きる。
そして天皇の戦争責任は様々な文献を調べてみても現れてこない。しかし昭和天皇はマッカーサー元帥にむかって「私がすべての責任を負う」と自らの首を差し出した。これは単に戦争指導者達の尻拭いしたのではない。事実上の敗戦という未曾有の国難に際して、はじめて国家元首という立場に加え万世一系の天皇という立場ゆえに「戦争責任」という概念をリアルな存在として認識できたのではないだろうか。
すなわちハイデガー流に言えば敗戦という出来事によってはじめて、それまで隠れていた「戦争責任」が開示されその存在が現在した。しかし、それを認識できたのは昭和天皇ただひとりであったということになろうか。

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