我が思想的変遷(2)

私の思想的立場は目に見えない分度器上にあると前回申し上げた。つまり180°と360°の間に存在するのである。逆にいえば0°から180°の間、すなわち目に見える目盛り上には存在しない。
このことに気づいたのは割と最近のことで、きっかけは右翼運動の大衆化である。
もともと右翼運動にシンパシーを持っていたことは前述のとおりであるが、それは反共・反ソという少年期の情念めいたものに加え、右翼特有のアウトロー的な体質に魅了されていたことも大きい。
東西冷戦体制の終焉は反共を第一義としていた右翼陣営にとって方向転換を迫られる重大な事態であった。これを乗り切れなかった者は淘汰され、単なるアウトローに堕ちてしまったのである。これは左翼陣営にも当てはまることは言うまでもない。
そのような状況下、従来の贖罪史観、自虐史観へのカウンターとして歴史の再検証が行われその流れの中で小林よしのりの『戦争論』が出版され大きな反響を呼ぶこととなる。一方でインターネットの普及によりネット右翼が誕生し、主に小林よしのりの『戦争論』を理論的支柱としてネット上での論戦を繰り広げることとなった。そして、いつしかネット右翼達は排外主義的傾向に走り、それが大衆運動化していったのである。
大衆化した右翼運動などは大政翼賛会と全共闘を混ぜ合わせたようなもので、威勢のよさは認めるがそれ以外に何ら評価すべき点は私には見つけることができない。
右翼へのシンパシーは次第に薄れていった。だが現実を生き抜くための心の支えとして、あるいは現実を変えるための理論的手段として、何か思想的基盤が欲しい。そこで伝統的右翼の理念と心情を継承しつつファシズム・アナーキズム・国家社会主義・民族ボルシェヴィズムを融合した思想構築を図ってみたのである。
それで様々な資料を探るうちに、マルティン・ハイデガーの入門書の入門書程度のそれでも私にはかなり難解な資料を読み解くうちに、例の分度器のたとえが思い浮かんだ次第である。
私の思想はまだ構築中である。生きている間に完成に至るかどうか定かではない。もしかすると設計者の死後も延々と工事が続けられている、アントニオ・ガウディの聖家族教会のようになるかもしれない。むしろ、そうなることを望む。
ただし、撃つべき敵はわかっている。志半ばで斃れようともかまわない。右翼にしろ左翼にしろ本腰を入れて運動にのめりこめば、大体は志半ばで犬死するか途中でドロップアウトするか惨めな老後を迎えるかのいずれかである。その覚悟がなければ思想など持つべきではないと思っている。
敵を倒し、志を遂げ、天下を手中にできるのは、天が定めた運のようなものを備えていなければならない。いかに人並み優れた頭脳や体力、様々なスキルを身につけようとも、天の定めた運には勝てない。唯一の問題はそれだけの強運を備えた人物がおるであろうかということである。

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